空海伝説

弘法大師の彫んだ大日像(福江)

 空海が渡唐の途中に、戸楽西方の大日山に登って、大日如来を刻んだと伝えられている。一間四方大の小祠が建てられて、その内に祠一杯大の自然石があって、これが像を刻んだ石の破片の如くに伝えられている。
 然しその石には像の片鱗らしいものは皆目見当たらず、只中央部に、何等かの人口を加えたかに見える箇所があるが、然しそれが果たして人工によるものであるか否かは不明であるし又像の何処の部分に相当するのかすらも想像がつかない。

弘法大師のタオル(奥浦)

 むかし、弘法大師が諸国巡業の時に民家に宿をかろうとあちこち頼んでみたが、どこへ行っても貸してもらえなかった。その時にある老夫婦が「あばら家ですがどうぞ」と快く宿をかしてくれた。
 その晩、老夫婦は自分たちには子供がなく、このように老人になって二人さびしく暮らしていますと話した。すると大師は「ああ、そうか、ではこのタオルをやるから正月二日の朝、井戸水を汲んで顔を洗い、このタオルでふきなさい」と申された。そして、当日になってその通りにしたところ、忽ち十八才の若者に変わったということである。

こぼっさま(椛島)

 むかし、椛島では大豆の取入れでどの家でも猫の手を借りたい程のいそがしい時期のことであった。この島に一人の旅僧がやってきて各家を托鉢して廻っていた。
 島全体を廻り終えた旅僧はある家の畑にきて「私は修行の身で、こうして日本国中を廻りこれから唐へ修行にゆくことになっている。申し訳ないが前の島まで船で渡していただきたい」と願い出た。その畑では大豆の取り入れの真最中で一家総出で仕事をしており、船をだすどころではない、すまないが隣の家に頼んでくれと断られてしまった。
 椛島中の家を廻ってやっと一軒、そんなに困っているなら船を出してあげようといって心よく承知してくれる家があった。そこで旅僧は「あなたが今一番困っていることはなにか」とたずねた。家の主人は、水を汲むのが一番困ると答えると、旅僧は家の前に金剛杖で何やら印をしてお経を唱えだした。そのお経を唱え終わると家の主人に「今、私が家の前に印をしてきた。そこを掘ると水が湧き出てきて水が涸れることはないだろう」と言い残して家の主人の船にのって前の島へ渡っていった。主人は旅僧を渡してから、さっそく旅僧の印をしたところを掘ってみると、不思議なことに水がこんこんと湧き出てきた。そしてこの湧水はその後も涸れることなく湧き続けたという。
 このことがあって以来、椛島には大豆ができなくなり、たとえできても実がはいらなくなってしまったという。そして、この旅僧こそ、のちの「こぼっさま」(弘法大師様)だったと言い伝えられている。

弘法様の手(椛島)

 むかし、椛島に魚釣りの上手な又兵衛という若者がいた。天気のよい日は、夜明けから小舟で沖へ出ては、たくさんの魚を釣って帰った。日暮れになると島の女たちが浜辺に出て、沖から帰る若者たちをむかえ、だれが今日は一番多く魚を釣ったのかを見るのが楽しみであった。ところがほとんど来る日も来る日も又兵衛よろたくさん釣ってくる者はいなかった。
 天気が悪く時化の日は、一日中、浜の若者は、若者のたまり場で手作りの道具でばくちをして遊んだ。又兵衛は魚釣りも上手だったが、島ではばくち名人といわれるほどばくちも上手で、やりだしたら夜がふけるのも忘れ途中でやめることはなかった。
 そのうち、だれということもなく、「又兵衛の手のひらを見たことがあるかね、おれがみたら、手のひらが血の出たようにまっかになってふくれていて普通の人の手のひらとちがっていたよ。だから魚釣りでも、ばくちでも強いのではないかな」という。この話が若者の間でひろまりだした。
 たまたま南風の吹く嵐の日がいく日もいく日も続いて漁師は海に出られなかった。若者のたまり場では、朝から焼酎を飲んでごろごろしている者や、ばくちに夢中になっている者でいっぱいであった。又兵衛は、いつも同じたまり場では、だんだん相手がいなくなったので、その日は一里ほどはなれた別のたまり場へ出かけていったが、二日たっても三日たっても又兵衛は帰ってこなかった。村の人々は心配して、みんなで山狩りをしてさがしたが、とうとうみつけることが出来なかった。そのうちに人々は、次第に又兵衛は天狗にさらわれたのではないかといいだし、月日のたつにつれ村人たちの口から又兵衛の名は消えてしまった。
 それから数ヶ月がたったある日、村の若者が一人で海岸に釣りに出かけ、釣り糸をたらしたまま。いつのまにかうとうととねむってしまった。ふとめをさますと、鷹の巣の断崖絶壁を一人の男がせっせと海から塩をくんだ桶をかついで天狗のように一直線によじのぼっていく姿をみかけ、おどろいてよくよくみるとそれは又兵衛であった。
 鷹の巣の絶壁は普通の人では、どんなにしても登ることができないところである。そこを塩をくんだ桶をかついで登っているので、それをみた者はおどろいてそのことを村中に知らせた。それからというものは、又兵衛は普通の人間ではない、天狗様か弘法様の生まれかわりだといって大変な評判になった。
 その話が島から島へ、村から村へと伝わり、とうとう殿様の耳に入ってしまった。殿様は「そんな不思議な力をもった者なら、一度わたしの目でたしかめてやろう」といわれ、又兵衛は殿様の前に呼び出された。お城では、おおぜいの家来がならんでいる一番下座に又兵衛はかしこまってすわった。すると殿様が手まねきして、「もっとちこう」といったので、又兵衛は「へー」と頭をさげ、「シッ、シッ、シーッ」と三声となえると風の如く「スー」と殿様の目の前に進んだ。これをみた家来は、みんな目をみはっておどろいた。殿様もおどろきながら、「お前は弘法様の生まれかわりと人々が申すが、なにかそのような証拠があれば見せてみよ」といわれた、又兵衛は静かに紙を何枚も何枚もかさねてその上に自分の手形を押した。
 ところが不思議なことに、かさねた紙の下の方になればなるほど手形が濃ゆくでたので殿様もほんとうにびっくりして、「まことにお前は不思議な力の持ち主だ、きっと弘法様がお前の手にのりうつっているにちがいない」といわれた。
 それからののち、村人たちは又兵衛のことを弘法様の手と呼ぶようになった。そして又兵衛もまた村一番の立派な弘法様の像をおまつりするようになったという。この又兵衛が塩をくんで登ったという鷹の巣の断崖には、海中から続く石段があり、これは弘法大師が作ったといい伝えられ、また、この石段には弘法大師のつえの跡が残っているといわれている。